lunedì 31 luglio 2017

ジローラモ・デ・アンジェリス:Wikipediaイタリア語版の翻訳

Girolamo De Angelis



■ジローラモは、イエズス会のイタリア人宣教師。江戸時代の1623年、将軍の命により火刑に処された。1867年、ローマ法王のピウス9世によって聖人とされた。

バイオグラフィー
シチリア島エンナ市生まれ。当時、エンナ市はカストロジョバンニと呼ばれていた。(注1)

1567年、一般のクリスチャンの家庭に生まれた。

17歳の時、兄弟であるピエトロと共に、法学を修めるためパレルモ市に移った。そこで、イエズス会の神父と出会い、入信を決めた。

1586年、1月16日、メッシーナ市の神学校にピエトロと共に入学。その後、ビヴォーナ市とパレルモ市の神学校に移った。日本に行って布教活動をしたいという希望を抱き始めた。そして、日本へ行くことを志ざした。

1596年、神父になる前、ピエトロと共にリスボン(ポルトガル)に向かった。同時にポルトガル語を学んだ。

1596年4月10日、インドのゴアへ向かう船に乗船した。(この船にはイタリア人宣教師のカルロ・スピノラもいたが、彼は1622年に長崎で火刑に処された。)アフリカのアンゴラ周辺で台風により船に大きなダメージを受けた。やっとのことで、一旦ブラジルに停泊。船の修理に一年半を必要とし、再出航を試みたが状態が悪かったため、リスボンに戻ることになった。その途中、新たな台風の影響を受け、プエルトリコに停泊した。数カ月後、ようやくリスボンに向けて出航。しかし、イギリス海軍に拿捕され、ロンドンに連行された。しかし、ピエトロとジローラモはイタリア人ということもあり、解放された。

1598年、ポルトガルのリスボンに到着した。

1598年、リスボンで神父となった。

1599年3月、アジアに向かって出発。この船旅にも数度の大きな困難が襲いかかった。

1600年、マカオに到着。マカオにて一年足らず日本語の勉強をした。

1602年、長崎に到着。上司より京都の伏見に行くことを命じられる。伏見で8年間布教活動をした。この活動が認められ、静岡の駿府行きを命じられた。

1614年1月27日、将軍からの禁教令により、デアンジェリスは長崎に逃れた。目立たないように宣教師の服を捨て、日本人と同様の服をまとって生活した。

1615年、上司の命令で青森の津軽に移動し布教活動を行なった。
(1621年までは北日本にいた。)

1618年、蝦夷に到着。初めて蝦夷に渡った欧米人となった。ヨーロッパでは、当時、蝦夷は本州につながっている土地と考えられていた。しかし、デアンジェリスは蝦夷が海を隔てて存在するということを、北海道の地図を作成し欧米にその存在を知らせた。一回目の蝦夷報告書。

1620年、当初、伊達政宗がデアンジェリスの布教活動を認め、経済的に支援していた。しかし、伊達政宗の態度が変わった。キリスト教の教えを捨てなければ、すべての財産を没収し、国外退去というルールに則って、キリシタンを取り締まった。アンジェリスは江戸に逃亡。隠れた生活をしつつも、布教活動を行なっていた。徳川家光が将軍になってからキリシタンに対する政策が厳しくなった。

1621年、二回目の蝦夷報告書を書いた。この報告書は北海道に関する地理を描いた最も古い文献の一つであった。

1623年、江戸でデアンジェリスから布教を受けた人物が、その存在を密告された。デアンジェリスは、その人物を解放してもらおうと、代わりに名乗り出た。

1623年12月4日、行動を共にしていたシモーネイエンポと共に火刑に処された。

(注1)
1927年までは、カストロジョヴァンニ(Castrogiovanni)と呼ばれていたが、古来の名前のエンナに変更した。

■セイント・ジローラモの祭り(エンナ市)
エンナ市にはセイントが2人いる。その一人がジローラモ・デ・アンジェリス。11月最後の日曜日の前週の日曜日にお祭りが行われる。サン・マルコ教会からサン・バルトロメーオ教会の間でキリスト教の行進が行われ、参加者にはビスケットが配られる。

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